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お義母さんの三回忌

お義母さんが亡くなって2年。
三回忌を営む。

立派な日蓮宗のお寺
二人のお坊さんが30分ほどの読経をあげる。
そのあと、焼香して、お位牌を地下の納骨堂に戻して終わり。

南無妙法蓮華経を今回はみなで唱えることはなかった。
私の家は浄土真宗。同じ称名仏教である浄土真宗でも南無阿弥陀仏を唱えなかった。
コロナ禍だから声を出すのはやめるということだろう。

そういえば、今回は姉弟夫婦とその子供家族で営んだ。
一周忌には親戚を呼んで大勢だった。
高齢者が多い親戚を呼ぶのはコロナ禍では望ましいものではない。

会食はカニ道楽。
久しぶりに食べるズワイガニは美味かった。

腹を空かした孫たちが大人の蟹をパクついて、大人たちが追加注文するはめに。
弟夫婦の懐が痛んだかも。

大丈夫、きっとなんとかなる
今日もいい日だった
お陰さまで

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香典について

お義母さんへの香典はいくらか。

お義父さんへの香典を調べたが、
4年前にもかかわらず、忘れたし
私の日記にも、家内の家計簿にも
記していない。

10~20万円。
家内がネットで見つけた相場だ。

まあ、こんなものだろう。

それにつけても樹木希林さんというひとは
すごい。

以下はジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳さんの
日経ビジネスオンラインの記事から

生前、樹木さんは香典の袋の中身を誰であっても、
3000円に決めていたという。樹木さんからすれば、
世間体を気にして、いちいち香典の中身に苦心する
のはバカバカしい。だったら一律3000円にすれば
いいじゃないか、という意図らしい。

そもそも香典に、決まった値段などない。
「香典(奠)」という言葉は、本来は霊前にお香を
手向けるかわりとして、金銭をお供えすることに由来する。
したがって、お香の代金を基準にするならば、
(香にもピンキリがあるが)、さほどは高額には
ならないはずである。

同時に、葬式における香典の意味は、相互扶助の
意味合いが強い。葬式となれば、喪家が多額の出費
を強いられる。そのため、地域や親族間で少しずつ
負担し合うのだ。

田舎の町内会では暗黙知によって香典は3000円とか、
5000円とか決まっている。地縁型の葬式が執り行われて
いる地域では「3000円」は、ごく普通の金額だろう。
ちなみにお寺への布施金額も、地域による暗黙知に
よってだいたい決まっている。

東京では香典は、「1万円」という金額が多いようだ。
金額が高めなのは都会では地縁が崩壊し、「個」の
付き合いになっているから。香典の金額が、その人自身の
相場観に委ねられているのだ。
すると、「世間体分」が上積みされ、高額になる傾向がある。
世間体さえ気にしなければ、別に東京でも3000円で差し障りない。

私は妙に樹木さんの「一律3000円」の考え方は、実にまっとう
だと思えるようになってきた。金額などはどうでもよく、死者に
対する敬意や弔いたいとする気持ちがありさえすれば、
それでいいのだから。
以上

誰にでも3000円で香典を通す。
大還暦をめざす者の慶弔金の考え方かもしれない。

でも世間はそれを許してくれない。それが世間体。

果てさていくらにすべきか。 下に

大丈夫、きっと何とかなる
今日もいい日だった。




孫は一万円、私は10万円にした。

お義母さん永眠する

2018.11.13 午前3時
お義母さんが永眠した。

呼吸が浅くなったと看護師から連絡が
あり、家内と私と弟夫婦が病院に駆けつけた。

でも相変わらず、血圧110、体温38度、
脈拍120、酸素量98である。

少々呼吸が不規則になっても今すぐ亡くなり
そうにはないと素人には思えた。

家内がお母さんと同室に泊まり、弟さんが
家族用の控え室に泊まることにした。

ときどき家内は脈を診るが、呼吸が飛ぶように
なったので心配で、看護士さんに心電図を
付けてもらうことにした。

その際、たんが口の角に溜まっていてそれを
とってもらうよう頼んだら、看護師さんが
マスクを外したまま一生懸命取り始めた。

お母さんは、急にガアッと息をして
そしたら心拍も止まってしまったという。

そんなこともあるんだ。

「大吽一声(だいうんいっせい)」して鬼籍に移る
白隠禅師の死に際のさまがこうだったという。

お義母さんのガアッといのは
この「大吽一声」だろうか。

心臓も120も打っていたから、限界だった
のだろう。何かの拍子で止まった感じ
だと家内は言っていた。

もう危ないと言われた金曜日からすでに
5日も経っている。

医師も、お義母さんの強靭な身体に
驚いていた。

それでもやはり寿命はくる。
90歳。
昔なら大往生。
現代はもう少し生きられたのではないかと
思ってしまう。

でも、血液のがん。悪性リンパ腫。
7月に余命ひと月といわれて、11月まで
元気に過ごすことができた。

これは幸せなことだったと思う。

自分の母親が逝った日の日記をめくって
いたら、こんなことを書いていた。

100m走をするように息をハアハアとしていたが、
死ぬ前はフーフーと落ち着いてきた。
心拍数が60を切り余脈となってあっという間に
0ゼロとなった。午後12時59分。
ひ孫たちにも看取られ亡くなった。

母は間質性肺炎で2ヶ月の闘病生活だった。

いろいろな死に様がある。

大丈夫、きっと何とかなる
今日もいい日だった





ドルミカム投与

お義母さんの具合が悪い。
昨日からドルミカムの投与が始まった。

ドルミカムは死ぬ前の緩和のための薬らしい。

確かに呼吸が荒く苦しそう。
何種類かの薬を投与したが、苦しみが取れない。

ドルミカムを投与すれば痛みは和らぐ。
しかし意識は戻らないという。

今までお義母さんと声を掛けるとそれに応じていたが、
多分、反応はなくなるだろうという。

ギリギリまで様子を見ようということにした。
そして、お義母さんが大好きなソフトクリーム
を食べさせることにした。

いつも病院にくるとソフトクリームを食べるのを
楽しみにしていたが、最近はお店に歩くのが
辛くて、食欲もなく食べずに帰って来ていた。

ソフトクリームを食べるね?

無言だが、うなずく。

ひとくち。スプーンにほんの少しだけのせる。

食べ終わると、つぎを口を開けて待っている。

美味しかった?

無表情だった顔に笑みが浮かぶ。

とろみもあるし、冷たくて刺激もあるのだろうか
ソフトクリームを食べて、あれだけ苦しんでいた
お義母さんが覚醒(かくせい)し喜んでいる。

もし、最後に食べたい物は何?
と聞かれたらソフトクリームは最高の選択かも
しれない。
だいたいどこにでもある。年がら年中ある。
それにリーゾナブルだ。

お義母さんは昔からよく家内にソフトクリーム
を買ってくれていたそうだが、本当は自分が
一番好きだったに違いない。

苦しそうな呼吸はドルミカムを投与することで
落ち着いてきた。


昨夜ひとりで家内はお母さんの病室に泊まった
が、お母さん辛そうで眠れなかったという。

今夜は家内と一緒に寝たが、呼吸はハーハー
言うけれどそれほど辛そうではないので
二人共眠れた。

それに2時間ごとくらいに、血圧、体温、酸素
を測っていくし、褥瘡(じょくそう)予防に体位を
変えてくれるので、もしかしたら夜に寝泊り
する必要はないかもしれないと感じた。

連絡があれば直ぐに駆けつけられるところに
家内もその弟も住んでいる。

昼間のお義母さんの状況をみると、2、3日
はこのまま意識はないが過ごしていくのでは
ないかと思える。

家内と弟さんの決断次第だが、弟さんには
仕事があるし、家内もひとり寝泊りするのは
つらい。

今日、よく考えたらあの病室で何人も亡くなって
いるのよね…。
それを考えたらなんだかこわい…。

家内を一人だけで寝泊まりさせるのは可愛そうだ。
私も一応は仕事があるから毎日一緒に寝泊りする
のは難しいし、弟さんを差し置いて泊まるのも
変だろう。

病院にお任せするのはアリかもしれない。

大丈夫、きっと何とかなる
今日もいい日だった



二度目の余命宣告②

お義母さんの入院で、私の母のことを思い出した。

間質性肺炎で余命2か月ですと厚化粧の女医
に言われた。
だが治療の甲斐があって回復したので、肺炎専門
の福岡病院に転院させられた。

建て替わったばかりの赤十字病院から野戦病院
のような病室への転院はとても悲しい思いだった。

回復したと言っていたのに、間質性肺炎と診断されて
ちょうど2か月後に母は亡くなった。
90歳になって2週間後だった。

新しくなった日赤病院では看取りをしないの
ではないか。だから転院させられたのではな
いか。厚化粧の女医を疑ったが、もう問いただ
すのも嫌だった。

でも、回復すると信じていたので、私は楽天
的だった。

酸素量がすくなくてマスクを着けられたが、
ゴムをきつくして隙間を減らすと酸素量が少
し上昇したので、きつくマスクをした。

あれは母にとっては拷問のようだったのでは
ないか…後から思うと愚かなことをしたと反
省する。

マスクがあるからしゃべれない。
もっと自由にしゃべらせてあげれば良かった。

もっと色々と話したかったのではないか…。

まだ日赤に入院中、私が一日顔を出さなかっ
た日がある。姉たちから聞くところによると
母が私が見舞いに来なかったと嘆いていたと
いう。

たった一日サボっただけなのに…

もう長くもないかもしれない命、せっかくなら
息子たちと少しでも過ごしたいと思っての
ことだろうか。

それから毎日見舞いに行った。

帰宅する前に行っていたので、お腹が鳴った
りした。母は自分の夕飯を私に食べろという
こともあった。

父が80歳で亡くなり、それから13年間生
きてきた。娘と孫娘とひ孫の男の子たちと過
ごしていた。
父はある意味幸せに亡くなったのだった思う。

母は、働きにでる娘と孫娘の代りに食欲旺盛
な二人のひ孫の男の子たちの食事を作っていた。
大変だったろう。
それが幸せだったかどうかわからない。

ときどき私と墓参りに行くのを楽しみにして
いたが、今頃になってなぜそれを喜んでいた
かがよく分かる。

墓参りのあとの昼食に大好きな鰻でなくて
うどんを食べるので、姉には「今日もうどん
やった」とがっかりしていたという。

それを聞いてからは奮発するようにした。

それでも息子が近くにいたから幸せだった…
かな。

私の息子は東京だ。
勤め先は都庁だから福岡に帰ってくることはなかろう。

家内が福岡に帰って来んかいな~とため息
まじりで口にする。

私はきっと先に死ぬ。
家内が高齢で一人になったときにやはり息子は頼り
になろう。

近くに住んでくれないか。
息子が67歳のときに家内は100歳。
東京からUターンしてくる可能性はあるかもね。

大丈夫、きっと何とかなる
今日もいい日だった



プロフィール

照

Author:照
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1955年生まれの男性。いまのところ現役(上場企業の非上場子会社監査役)。
健康状態は普通。ジム通い、通勤時ウォーキング(往復1時間)など実践。
長寿リスクに備え、株式投資、投資信託など購入するもはかばかしい成果に恵まれず。
ブログは頭の活性化がメイン。アフィリエイトなども指向するが上手くいかない。
給与生活をできるだけ節約して存命中。
健康に長生きするための知恵を求めてさすらい中。

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